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『みえるとか みえないとか』発売記念対談④

7月11日に発売になりました『みえるとかみえないとか』は、
『伊藤亜紗さんが光文社から2015年に出版した
『『目の見えない人は世界をどう見ているのか』をきっかけに、
『ヨシタケシンスケさんが伊藤さんに「そうだん」しながらつくった絵本です。

第一回「新書と絵本 それぞれのアプローチ」はこちら
第二回「子どもの「面白そう!」にどう言葉を返すか」はこちら
第三回 絵本を読んだ子どもに「信頼」されること/「へー」って、すごい! は
こちらをご覧ください。 最終回の第四回では、タイトルのひみつが!

伊藤亜紗 1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。
専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。
著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)など。1児の母。趣味はテープ起こしと燻製。

ヨシタケシンスケ 1973年神奈川県生まれ。
筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。
『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)で第6回MOE絵本屋さん大賞第1位、第61回産経児童出版文化賞美術賞、『りゆうがあります』(PHP研究所)で第8回MOE絵本屋さん大賞第1位を受賞。『もうぬげない』(ブロンズ新社)で第9回MOE絵本屋さん大賞第1位、ボローニャ・ラガッツィ賞特別賞を受賞。『このあとどうしちゃおう』(ブロンズ新社)で第51回新風賞を受賞。その他、著書多数。2児の父。趣味は読まない本を買うこと。

 

「みえるとか、みえないとか、大人とか、子どもとか」

 


ヨシタケシンスケ(以下、ヨシタケ):『みえるとか みえないとか』というタイトルは、見えるとか見えないとか、聞こえるとか聞こえないとか、大人とか子どもとか、男とか女とか…という全部をひっくるめて入れられたら、と思ってつけたんです。

目が見えるということ、見えないということから「話し合えたらいいけど、まあそう簡単にはできやしないよね」っていう「わかりあえなさ」まで一般化したかったんですよね。


伊藤亜紗(以下、伊藤): そういうことなんだ(笑)

ヨシタケ:一般化することで、読んでくれた子どもたちーたとえば、自分のまわりには目の見えない人はいないけれど、どうしてもわかりあえない兄がいる。
そういった、それぞれの問題にも組み立て直せるんじゃないかと思いました。
わーっと風呂敷を広げると、その風呂敷に何でも入れられる……というような。


ただ、そこで「面白い」と言ってくださる方もいれば、「勝手なことを言うんじゃない」と思われる方も、当然いらっしゃると思います。
以前、『このあと どうしちゃおう』という、死をテーマにした絵本を作ったことがあります。
お叱りを受けるかな…と思いながら作ったんですけど、発売してみると思いのほかありませんでした。
今にして思えば、だれも死んだことがないので、「死ぬ」ということに関して僕が好き勝手に世界をふくらませても、文句の言いようがないんですよね(笑)


伊藤:そうですね(笑)



ヨシタケ:でも、病気だったり障害だったりっていうのは、当事者の方がいらっしゃる。

「(書き手が)経験したことのないことを描いている」という点で、今回の絵本はどう受け止められるのか、わからないところもあります。
「不快な思いをした」と言われてしまったら、申しわけありません、と言うしかないのですが……。



伊藤:でも、「経験したことのないこと」を考えることって、障害を考えるときや障害のある人と関わるときにも使える、ひとつのテクニックだなと思います。

この絵本の中にも加えてもらった、「もし目の見えない人ばっかりの星があったら……」というところは、以前行ったワークショップの中からピックアップしてもらいました。

伊藤:「全員先天的に全盲だったら、そこはどういう社会ですか」ということを、目が見えない人と目が見える人で一緒に考えてみる。
そうすると、もちろん視覚障害者も晴眼者も、誰もそんなところに行ったことがないので、知らないわけですよ。

お互い正解がない状態で、間接的に「見えない」ということを考える。
そういうフレームにすると、根本からひっくり返る発想が生まれて、なおかつ自由になる。だれも傷つかずに、大事なことが考えられるなと思いました。



ヨシタケ:そういう場を作ることって、大事なことですよね。
そういう場さえあれば、「あ、面白―い」って言えるし、話し合える。話し合うことができれば、新しい価値観も生まれますよね。



伊藤:話は少し戻りますが、他人事感と一般化が近いっていうのはヨシタケさんならではなんでしょうね。

ヨシタケ:「自分」と「それ以外」を考えたときに、どうにか「ほかのことに応用できる考え方」にならないかな、とは思っています。

大人と子どもでも、考えていることがちがったり、見ているものは一緒でも受け取り方がちがったり、ということがありますよね。

だから反対に、お父さんやお母さんとケンカができるんだったら、視覚障害の人とでもケンカできるはずなんです。

やっぱり一つの問題に深く入っていくと、そういった目線を保つことが難しくなってしまうという気はするんですよね…。ほんとにすごい人は、現場のこともわかるし、引いた目線からひとつの提案もできるはずなんですけど、僕は入ってしまうと、細かいことがどんどんどんどん気になってきてしまうんです。



伊藤:今日お会いするのが二回目で、その間お会いしていなかったことも、結果的に良かったように思います。


ヨシタケさんは細かい情報が入らない状況で創作をして、私が現場の細かい情報を拾う立場で。最終的に「そうだん」という肩書きで登場させてもらいました。



ヨシタケ:今回、どういう肩書きにするのかっていうところも悩みましたよね。ふたりの立ち位置そのものがめずらしいものになっているのですが、それがまた、ひとつの価値になってくれればと思います。

伊藤先生の本があっての本ですから、絵本を読んだ子どもが、大きくなって『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んで、「あ、なるほど。こっちの本ではこういう着地点なんだ!」って、そこも面白がってもらえれば嬉しいですよね。


読者の方へ


ヨシタケ:ふつうに笑いながら読んでもらえたら、一番嬉しいです。

「なにか考えなきゃいけない」ともし思ったんだとしたら、それは僕のミスです(笑)

欲張るなら、この本を読み終わったときに、「そういえば」って、ちょこっと見え方が変わってくれたり、小さいときは宇宙人がかわいいと思って読んでいたけれど、大きくなって読んだら、「これ、視覚障害の本だったんだ」「こういうことが書いてあったんだ」と別な気づきが生まれる、そんなことが起きてくれたら嬉しいですね。

伊藤:当たり前ですが、視覚障害者の方もそれぞれ思っていることは違います。

たとえば、先天的に視覚障害がある方は、最初に受け取ったのが「見えない身体」なので、ある意味、それがふつうなんです。でも中途障害の方だと、見える身体の記憶があるので、前の方が良かったと悩んでらっしゃる方もいます。

あらゆる人付き合いがそうであるように、障害のある方との関わり方に正解はありません。
子ども側の多様性と、障害を持ってる方の多様性で、その都度その都度正解が変わるようなものだと思うんですよね。
相手によってふさわしい関係は変わるし、その関係を作る過程で自分にもきっと変化が起こる。そのワクワク感が伝わるといいなって思います。

(終)

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