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『みえるとかみえないとか』発売記念対談②

『みえるとかみえないとか』は、
伊藤亜紗さんが光文社から2015年に出版した
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』をきっかけに、
ヨシタケシンスケさんが伊藤さんに「そうだん」しながらつくった絵本です。


お二人の記念対談、第一回はこちら
二回では、この絵本が宇宙を舞台にしている、その訳が明らかに……!

伊藤亜紗 1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。
専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。
著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)など。1児の母。趣味はテープ起こしと燻製。

ヨシタケシンスケ 1973年神奈川県生まれ。
筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。
『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)で第6回MOE絵本屋さん大賞第1位、第61回産経児童出版文化賞美術賞、『りゆうがあります』(PHP研究所)で第8回MOE絵本屋さん大賞第1位を受賞。『もうぬげない』(ブロンズ新社)で第9回MOE絵本屋さん大賞第1位、ボローニャ・ラガッツィ賞特別賞を受賞。『このあとどうしちゃおう』(ブロンズ新社)で第51回新風賞を受賞。その他、著書多数。2児の父。趣味は読まない本を買うこと。

 

子どもの「面白そう!」にどう言葉を返すか

 

ヨシタケシンスケ(以下、ヨシタケ):子どもの頃、視覚障害者の方が歩いているところを見かけて、「あの人は何をしているの?」と母親に尋ねたことがあります。「目が見えないから杖をついて歩いている」と聞いたときに、僕「面白そう!」って言ったんですよ。目をつぶってって、なんかゲームみたい!と思って。そうしたら「あの人は、好きで見えないわけじゃない。じろじろ見たり、面白がったりするんじゃない」と、すごく怒られました。

自分はすごく悪いことをしてしまったんだという気持ちになったのを覚えています。


伊藤亜紗(以下、伊藤):ありますよね。「見ちゃいけません」とかね。


ヨシタケ: でも、このあいだ、うちの息子も、テレビで視覚障害の話になったときに、「おもしろそう!」って言ったんですよ(笑)そのときに、そうなんだよなあ、って思って。

(視覚障害のことを)知らないと、目をつぶったら見えなくなるっていうことは、スイカ割りと同じようなドキドキ感に感じられるんですよね。

それに対して「いけません」って言うのも違うんじゃないか、という気持ちもずっとあったんです。


伊藤:たしかに、障害の問題って、反射的にだめって言ってしまうような、考えるすきまがないところがありますよね。実際はどうなんだろう、と、調べたり想像したりする余白もなく、「だめはだめです」というような。

だめっていうことを、本気で思っていないのに口から言ってしまって、それで本当に良かったのかなと思ってらっしゃる方も多いんじゃないかと思います。

ヨシタケ:そうですよね。そのなんかもやっとしたかんじというか(笑)

「見ちゃいけません」と言われた経験が重なると、大人になるにつれて「あちらはあちらの世界があるんだし、こっちから興味本位でのぞいちゃいけない」いう態度になってしまいかねない。それも違うと思うんですよね。だから、「子どもが『面白そう!』って言ったときに、どういう言葉を返すか」というのが、今回のテーマのひとつでもあります。「こらこらこら!」っていう親側の気持ちもよくわかるし、当時の僕の母親の反応も、正しいんです。その一方で、その気持ちを否定せずに、もうひとつふたつ選択肢を増やすことができるはずで……。

それが、伊藤先生が新書の中でおっしゃっていた、「お互いに面白がる」という着地点になる。

ヨシタケ:絵本の中で、主人公の男の子が目の見えない宇宙人に向かって「目が見えないってなんかおもしろそう?」と聞く場面があります。そのときに、宇宙人は「僕は目がみえる方がおもしろいと思うけどね」と返すんですが、それが、子どもの「面白そう!」に対する、僕のひとつの答えなんです。

見える見えない関係なく、お互いの身体は選べない。だから、向こうはこっちの方が面白いと思うんじゃないかな、と。


伊藤:実際に障害のある方に会っても、わからないことがあったら質問してほしい、とけっこうな頻度で言われます。遠巻きに言われる「見ちゃだめだよ」という言葉は、本人にも聞こえているんですよね。そう言われることの方がショックで、「いやいや、ふつうに聞いてよ」と(笑)

反対に、視覚障害者だって見える世界のことは知りたい。それぞれの文化を交換することって、一見ハードルが高いように見えますけど、実はいちばん最短距離なんじゃないかっていう気がします。


ヨシタケ:一方で、「相手が何に喜んで、何に傷つくかわからないから、話しかるわけにはいかない」「相手がわからないからこわい、こわいから話しかけられない」ということもありますよね。

「まあ……今日は声をかけなくてもいいかな」と、ぎりぎりで内側にハンドルを切ってしまう感覚は、誰しもが持っているものだし、何よりも僕自身が人一倍持っているものです。


伊藤:新書と絵本を比べた時に、いちばん違うのはそこですよね。

私は研究者という肩書きをもっているし、性格的にも楽観的なので、わりとどんどん声をかけて質問しちゃうんです。

でも、ヨシタケさんは研究という前提抜きで、素手で見えない人と関わろうとされている。「そんなに声はかけられないよねえ」というためらいがちゃんと含まれていて、すごくリアルだなと思いました。


ヨシタケ:「相手が言われたくないことをうっかり言ってしまうくらいだったら、何も言わないでおこう」という気持ちは、優しさなんですよね。それぞれがそれぞれに小さな優しさをもって、人を傷つけてしまう。

良かれと思ってやっていることが、なんだか噛み合わない。そのときに使えるもうひとつの選択肢を提示したいし、その選択肢は、本当はもっともっとあるべきだと思います。考える機会をたくさん作ることが、大人の仕事のひとつなんだろうなって思うんですよね。


伊藤:絵本の中に、「自分の身体は乗り物のようなもので、自分自身では選ぶことができない」ということが出てきますよね。自分が望んだわけではないのに、その条件の中で生きていくしかない。それって、ある種の強烈な絶望でもありますよね。

そこがしっかりと描かれているのは、メッセージとしてすごく重い。

でも、子どもの頃って、なんで自分はこういう顔で、なんでこういう身長で、と、よく考えていたなと思いました。周りの子と比較してどうかということではなく、理由がないことに対してすごく不安な気持ちになっていたんですよね。そこに届いている絵ってすごいなあ、と感じました。

ヨシタケ:このテーマの中で、「結局自分で選べないんだよね」ということをいかに言うかっていうのはとても大事なところだと思いました。

それぞれが選べない中で、その事実をどう受け入れて、どう交換していくかに面白さがあると思っています。

 

「ふつう」のない世界で考える


ヨシタケ:この本の中で、僕が一番勇気が必要だった部分が、目の見えない人を宇宙人として登場させたことです。これにもやっぱり理由があって、一番最初は、主人公に近い人(親戚)に目の不自由な方がいて、その人の話を聞いて……というアプローチからはじめました。 でも、やってみて思ったのは、白杖を持って歩いている人を絵に描くと、その絵だけで、「かわいそう」に見えてしまうんです。


伊藤:ビジュアルの力ですよね。


ヨシタケ:そう、ビジュアルの力なんですよ。その絵にラベリングされている意味合いみたいなものが、ぐいぐい出てきてしまうんですよね。「障害者」だったり「マイノリティ」だったり。それが何も言わせてくれないっていうのが、絵を描いてみてわかって。

どんなに可愛く描いて、どんなにデフォルメして描いても、たとえば車椅子に乗っているだけで、「がんばってー!」っていう気持ちでしか、絵と向き合えなくなってしまったんです。「なんかそれ、面白そうだねえ!」「それってどうやって曲がるの?」って聞けなくなってしまう。それで、ああ、これは難しいと思って。

伊藤:たしかに、私も本を書くときに、「視覚障害者」っていう言葉って、怖いなって思っていました。

それに近いですよね、「字面が怖い」というか。


ヨシタケ:そうだと思います。

そのときに、この「かわいそう」という感覚をもつのは僕だけでないんじゃないか、と思いました。「見ちゃいけません」と言われたことのある人であれば、多かれ少なかれ、絵本を読んだときに同じことを感じてしまうと思ったんです。


伊藤:単なる絵としてだけでなく、「大変そう」といった配慮モードが、自分の中に自動的に立ち上がってしまうんですね。現実の世界でのイメージが、絵にひもづけされているような感じですよね。


ヨシタケ:どうしても人間の世界を描くと「僕・私は健常者で、それができない人がいる」という絵に見えてしまう。

その意味合いをどうやって解除するかと色々考えたときに、設定でどうにかするしかないと思いました。

僕の絵本、だいたい主人公が部屋からでないんですけど、今回の絵本ではじめて宇宙に出ました(笑)


伊藤:本当だ(笑)


ヨシタケ:当社比ではすごい距離感です(笑) 「健常者」「ふつう」という概念自体が、時代や国によってばらばらで、本来はあてにならないもの。「ふつう」がすでにない状態であれば、その意味合いを解除できるんじゃないかと思いました。


伊藤:一番はじめにそれがでてきますもんね。すごい重要ですよね。


ヨシタケ:最初の2ページで終わってるんですよ。この本は(笑)。 自分はふつうだと思っていたんだけど、なんだか相手から気を使われた。それはまさに、視覚障害者の方の「聞いてくれればいいのに」っていう気持ちと重なる場面です。このたとえ話が機能する舞台は、もう宇宙しかないだろうと。


伊藤:障害者側の視点に、気づかないうちに立っている状態ですよね。いつもこういう気分なんだ、っていうところにすっと入れる仕掛けはすごいなと思いました。

ヨシタケ:宇宙に行ったら、みんなちがってばらばらで、何が「ふつう」かわからない。とはいえ、本を閉じればそこは地球で、健常者中心の社会があるわけなんです。

だから宇宙の話と、宇宙も地球も一緒だよね、というところもつながなくてはならない。

そういう意味で、かなりアクロバティックで、あっちに行ったりこっちに行ったりしている本になってしまいました。


伊藤:でも、後半になるに従って、細部が描かれていきますよね。

たとえば、「テストのときは目が1個しかつかえないの」とか。

このあたりで、子どもも親近感がわいてきて、宇宙と自分の身近な部分が埋まっていく感じがあるんじゃないでしょうか。


ヨシタケ:そうですね。「話し合おうね」「声を掛け合おうね」というような、概念的な障害論にならないようにするためには、ディティールをたくさん見せて、面白がってもらうしかないと思いました。

「お互いのことを面白がるって、例えばこういうことかな」「それに、こういうこともあるよ」と具体的に見せられてはじめて、「じゃあ自分だったらこれを聞いてみたいな」「こういうことを教えてあげたいな」という気持ちになるかな、と思ったんです。

 

(次回に続く)

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